初の有人デジタルワールド探査となるタルタロス計画は、正確には工程目標を半分あまり達成しながら、結果として完全に失敗した。
DMIA。
のちにデジタルワールド行動中失踪と呼称されることになる。
アグモンとマインドリンクした龍泉寺沙耶は、最初のマインドリンク実行者のひとりであり、未だ定義されていなかった最初のDMIAとなった。
仮想観測船タルタロス号によるデジタルワールドの探査は、はじめ順調にすすんだ。
パルモン、テントモン、アグモンのチームによるバーチャル・シップは、ツールによってネットワークの海に潜った。
彼らはこれを月への周回飛行にたとえたが……実際は潜水艇による海中探査のような体験だった。
ネットワークの世界は宇宙ほど見通しはよくない。
あらかじめ光学観測できたわけではない。
ましてやマインドリンクによってもたらされるデジモンからの知覚情報は、サヤとアグモンのコンビをもってしても現在よりはるかに解像度、精度が低かった。そのため得られる情報は限られていた。
小さなライトひとつで、手さぐりで深海をはいずりまわるような体験。
それでもデジモンたちは、あらかじめプログラムしたとおり自動操縦で、予定どおりネットワークを――ノイズまみれのデータの海を潜っていった。
結論。
ユーリンとコースケは、このときタルタロス号を襲った悲劇について、なにも知らない。
なにかが起きた。
しかし未熟なマインドリンクによって、彼らは、なにが起きたのかを知覚することができなかった。
タルタロス計画が失敗した原因は未だに謎のままだ。
でも、サヤは観測したはずだ。
不鮮明なモノクロのデジタルワールドで、なにかを。
意味のあるデータ、意図をなすコード。
すなわち知性あるAI生命体たる、なにか。それはデジモン、それは――
あるいは敵意ある。
このときのことを思いだそうとしても、ユーリンは多くの言葉を持たない。彼女がリアルタイムで得られた情報は、きわめて限られていたからだ。
彼女はその場にいたが、きちんと見えはしなかったし、なにも聞いていない。
しいていえば、その直前にゾクッという――嫌な予感はした。もちろんそんなもの、科学的にはデータにもならない。
気がついたときアグモンのシグナルは消失していた。
マインドリンクしたサヤごとだ。
計画の折りかえしポイント――デジタルワールド領域への最接近を図ろうとした、そのときだった。
なんらかの意図あるコード、AIが〝攻撃〟をしかけてきた。
観測員であるサヤのアグモンをねらって?
いいや、あるいは……それは不幸な事故だったのかもしれない。現実世界でも、船舶が氷山や大型海洋生物に衝突して沈没してしまうことはある。
確かなことはなにもわからない。
ただ、不測の事態に直面して、コースケはそのときパニックにおちいった。
婚約者のシグナルが消えた。
見えない〝怪物〟にのまれた。
彼らのパートナーデジモンの行動は、すべて事前にプログラムされていた。
コースケは本部にサヤとアグモンの探索許可を要請した。自分とテントモンを観測員として、操縦をマニュアルにしてこちらによこせ……と。
決定権はすべての指揮を執る龍泉寺教授が握っていた。
龍泉寺は決断する。
仮想観測船タルタロス号は、はげしく損壊して機能を失いかけていた。
ユーリンのパルモンとコースケのテントモンも、軽度とはいえないダメージを受けていた。
龍泉寺は当初の計画どおりにリスクをコントロールした。
生存しているユーリンとコースケの帰還を最優先したのだ。間違っても、その場でふたりがサヤを救助にむかうことがないように。3人全員がDMIAとなる最悪の事態を回避したのだ。
アバディンエレクトロニクス・電臨区デジタルラボ(DDL)。
壁面ディスプレイに、四季折々の自然からなる環境映像が流れている。
警視庁デジ対班長・徐月鈴はDDLのロビーに立っていた。
タルタロス計画の失敗から、長い年月がすぎた。
あの事故のことで思い悩んだ夜の数は百や千では足りない。
かろうじてリアルワールドに帰還したユーリンとコースケを待っていたのは、シートに体を横たえたまま昏睡したサヤの姿だった。
最後のそのときまでもたらされていた観測データを精査した結果、サヤの精神データはアグモンのデジコアに転送された状態のまま、事故現場からデジタルワールドのどこかにいってしまったと推定された。
DMIA――記録で確認できるなかでは最初のデジタルワールドにおける失踪者。
いまであればわかる。サヤは、いずれにせよマインドリンク持続時間の限界からタイムアウト、彼女の精神データはパートナーデジモンのデジコアと癒着してしまった。
サヤのアグモンはどうなったのか。
なにもわからない。現在でもDMIAになったデジモンがどこに行ってしまうのか、よくわかっていない。
タルタロス計画には10以上のプロセスと評価点があった。
デジタルワールドの観測はノイズがひどかったものの成功。
デジモンの自動操縦は大成功。
ユーリンとコースケは帰還するも、サヤはDMIA。
だから計画としては半分あまり達成、人的損失によって結果は大失敗ということだ。
ユーリンとコースケは、なんらなすすべがなかった。
ほとんどなにも見えず、なにも聞こえないネットワークの海で、気がついたときにはサヤを失っていた。
成長期のデジモンと不完全なマインドリンクに成功したばかりの人間など、ベビーカーに乗ったよちよち歩きの赤ん坊も同然だった。
でも、そうであったとしても。
計画そのものに、もっと異世界の生命体――未知の知性との接触に対する危険性を織りこむことはできなかったか。
ユーリンはリスクを感じていたのだ。これは宇宙人と接触するようなものではないか、と……。
心のどこかで、デジタルワールドは人類が征服すべきフロンティアであり、デジモンは自分たちより下等な存在だと侮っていた。
技術を未知の壁めがけて試すことばかりを考えて、どこに、だれに対してアプローチする計画であるのかコミュニケーションと想像が足りなかった。
そしてサヤは犠牲になった。
大学病院に搬送されたサヤは意識不明のまま回復することはなかった。
精神データをデジコアに移した状態でネットワーク上でロスト、肉体から意識を強制切断された。
生きているのか死んでいるのか……。
だれも診断は下せなかった。たぶん神様でもだ。
龍泉寺教授は娘の生命維持のために手をつくした。
同時に教え子たちも。マインドリンク実験とタルタロス計画については秘匿することで、計画を主導したユーリンとコースケを守った。
デジタルワールドの研究と、その未来もだ。
娘を失ってもふたりの教え子の命と未来を守った龍泉寺の行動は、事情を知るごくわずかな関係者から、より敬意を集めることになる。
その後の象潟講介のことを、ユーリンは気にかけてはいたがよく知らない。
最後に会ったのはいつだったか。事故直後、病院でサヤを見舞ったときだったか。
コースケは大学はもちろん会社にもこなくなった。電話には出ず、メールの返信もまばらで、そのうち無視されるようになった。
彼の消息についてユーリンが龍泉寺教授から聞かされたのは、しばらくたってのことだった。
――サヤをアメリカに……?
――専門の医療機関があってね。肉体へのダメージを最小限に抑えながらケアができるそうだ。
植物状態のサヤを「転院」させると。
――でも……。
――これまでのように見舞うことはできなくなる。だが……そのほうがいいと私は思うんだ。サヤのことで……ユーリン、きみのような優秀な学生が足踏みをするようなことはあってはならない。このままだときみも卒業できなくなる。
――コースケはなんと?
――もちろん彼にも話した。大学はやめるそうだ。彼にとってもタイミングだけだった。今後のことは、私もできるかぎりのサポートをするつもりだ。
事故のあと、ユーリンとコースケの時間はとまっていた。
タルタロス計画とデジタルワールドの研究も、龍泉寺の判断で凍結されていた。
残された3人は、いまはバラバラ。
たがいを気づかうあまり、なにもできないでいる。
自分だけが研究に打ちこみ幸せになってよいのか、とさえ……。
そもそも――
サヤがいてこその龍泉寺研究室だった。
サヤがいてこその龍泉寺電子工業、サヤがいてこそのチームだった。
引きこもってしまったコースケとかかわることは、ユーリンには苦痛でしかないだろう。
そしてサヤのいない龍泉寺教授は、あまりにも偉大すぎて――おいそれと軽口をたたくこともできない相手になってしまった。
ザッ――――
もの思いにふけっていたユーリンの前に、なにかが出現する。
オブジェ。
3つの球体が宙に浮かぶ。ホロライズされた球体には、それぞれ特徴的なマークが刻まれていた。
ワクチン、ウィルス、データ。
それらは、たがいに重なりあいながら回転していた。
三つ巴のオブジェはくずれながら跡形もなく消える。
歳を重ねても答えは未だ、、、、。
それでもユーリンは警察官として、いまもデジタルワールドにかかわり続けていた。
キャラクターデザイン・挿絵イラストレーター:malo